17世紀以来、沖縄で「焼き物の町」といえば、那覇の
壷屋だが1970年代に入るころから那覇市の過密化
が進み、壷屋は、いつのまにか繁華街の真ん中に
なった。数日間も薪を燃やし続ける登り窯は煙害の元
区として、存続が難しくなり、とうとう登り窯は、壷屋
から姿を消した。
しかし登り窯でどうしても焼き物をつくりたい陶工たち
は、読谷村なら一般住宅は、少なく四方木立に覆われ
ている場所に「やちむんの里」を開拓し、多くの陶工が,
壷屋から移りました。
読谷村には、14世紀にもさかのぼる陶芸の歴史があり
1372年読谷出身の泰期が、中山王・察度(サット)の命を受けて、中国へわたり、琉球の大交易時代の幕を開いた。
そんなことから、読谷は、沖縄の南蛮貿易、発祥の地ともいわれて、釉薬を使わない南蛮焼きや伝統工芸品の読谷山織も、この時代に渡来したと考えられています。
16世紀ころ読谷村喜名に琉球を代表とする焼き物の町があり、それまで中国的な作風に、新しい日本の技法が取り入れられ、沖縄独特の焼き物が生まれ、読谷の遺跡からは、素焼きのほかに、瓦の破片も多数出土している。
那覇の壷屋焼きよりも古い技術と伝統を持っていた喜名焼きは、琉球の歴史から忽然と姿を消され、いまだに謎とされています、だから読谷に「焼き物の里」が出来たのは、歴史的に考えても必然であると思いませんか。
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