小那覇舞天!
小那覇舞天(ブーテン、本名・全孝)
終戦直後、避難民のひしめく石川市で家々を回って歌い、踊った男がいた。
後に
”沖縄のチャプリン”と呼ばれ、親しまれた
小那覇舞天(ブーテン、本名・全孝)
戦禍で傷付いた人々の心を笑いで癒し、希望をともした。歯科医の傍ら、芸能の復興
と地域社会の再生に貢献した。
終戦直後の旧石川市(現在のうるま市石川)
沖縄線で米軍が造った避難民収容所とその周囲には、戦火に追われた3万の人々
が、収容され人工2千人の農村は数カ月で”大都市”に変貌します。
テント、かやぶきの掘っ建て小屋、仮設住宅が隙間なく立ち並び多くの人が知らない
土地で、戦争で受けた傷を癒す間もなくその日を生き延びる事で精一杯でした。
軍作業に駆り出され、食料と物資の確保に追われる毎日で、住民はそれぞれ親戚や
出身地ごとに毎晩のように集まったが、戦争で亡くした遺族への想いと、悲しみを背負
い明るい話題などない時代だった。
そこに突然、現れた風変わりな男! それが
ブーテンだったのです。
終戦後当時の小学校授業の様子
「ヌチグスージサビラ!(命のお祝いをしましょう)」
民家から、すっとんきょうな甲高い声とで
「ジャカジャカジャン」三線が鳴り響き、宴が
はじまるのです。
突然やってきた中年の男が、即興の歌を民謡の節に乗せ、琉舞を崩したヘンテコな
踊りを舞い、珍客にあぜんとする住民たち。
だがやがて、ユーモラスな姿に乗せられて一緒に、三線の曲に合わせて踊りだす。
終戦の年、四十八歳の
ブーテンはそうやって地域を回った。
当時、
ブーテンに連れられ民家を訪ね歩き、後に弟子となった
芸能家・照屋林助さん(故)の印象に残っていて、ともに訪問したある屋敷で、家の中には位牌があり、家主が涙を流し
ていて
、「何でこんな悲しいときに歌うの」と問われた
ブーテンさんは、
「亡くなった人たちのためにも
生き残った者が元気を出して、沖縄をしっかり
つくっていかないと! はい、スージ(祝い)しましょう」。
彼の言葉に家主の表情が変わったと証言しています。
林助さんはそのとき、芸能の力と、その魅力を引き出す
ブーテンの天賦の才能を感じた。
集まりがあれば必ず顔を出し、場を盛り上げる変わった男がいると話題になり
ブーテンの
存在は、水面にさざ波が立つように知られて行きました。
「スージに来てほしい!」打ひしがれた人々の心が活力を取り戻しはじめた
ブーテンさん
を中心に、地域の輪が広がりはじめた。
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