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Posted by TI-DA at


エミューツアープランニング・ガイドでは、5月28日から、31日まで

シリーズ沖縄本島、 「沖縄・世界遺産を探る」 を開催します。



今回のテーマは、「勝連グスク」
内容は、勝連グスクをさまざまな視点から、現地ガイドの解説
を交えて琉球戦国時代のロマンを学んでみませんか!!

所要時間  (約60分)
参加費    1000円
募集人数   午前の部 2名より・午後の部 2名より
午前の部   AM 9:00~AM 12:00
午後の部   PM 1:00~PM 4:00

{お申し込み}
エミューツアープランニング・ガイド
090-7166-5778
参加申し込みは、予約制となっています。
参加予定日の1日前まで、申し込みを受付ます。
多数の参加者お待ちしています。





エミューツアープランニング・ガイドでは、5月28日から、31日まで

シリーズ沖縄本島、 「沖縄・世界遺産を探る」 を開催します。



今回のテーマは、「勝連グスク」
内容は、勝連グスクをさまざまな視点から、現地ガイドの解説
を交えて琉球戦国時代のロマンを学んでみませんか!!

所要時間  (約60分)
参加費    1000円
募集人数   午前の部 2名より・午後の部 2名より
午前の部   AM 9:00~AM 12:00
午後の部   PM 1:00~PM 4:00

{お申し込み}
エミューツアープランニング・ガイド
090-7166-5778
参加申し込みは、予約制となっています。
参加予定日の1日前まで、申し込みを受付ます。
多数の参加者お待ちしています。





琉球の覇者!

2007年10月16日

Posted by ☆新米社長☆ at 08:58 Comments( 0 ) 琉球の歴史


(旅その3)
尚巴志の誕生秘話!!キラキラ 

巴志の父・思紹は、苗代大親(なわしろのうふやー)と呼ばれていていました。
今から約600年前当時の佐敷には、地域の有力者・美里之子(みさとぬしー)
という人物が、いたそうです。びっくり!
彼には、娘がいて、村の人々に噂されるほどの美貌の持ち主だと云われて、
その美しい娘と巴志の父・苗代大親(なわしろのうふやー)は、恋に落ちやがて
「できちゃた!!」その子が尚巴志だと云われています。GOOD

尚巴志の出生には、幾つかの伝説秘話があり、はっきりしていませんが、私の
勝手な推測で言うと、父の思紹と美里之子の娘とは、不倫の恋で、思紹も大親
(うふやー)と呼ばれるだけの権力を持っていて、すでに妻がいたはずです。
ただならぬ恋で身ごもってしまった娘に、父の美里之子は、怒り狂い娘を殺そう
とするのですが、娘の母は、娘を苗代樋川(なわしろひぃーじやー)の森の中の
小屋に隠れ、そこで、巴志を出産したのだろうと、考えています。

実際にその話の云われる場所へと足を運んでみると、なんとなく当時の事情を
垣間見る様に、感じられ、真実はどうだったのか創造が膨らみますよ~!!青しまぞおり




琉球の覇者!

2007年07月11日

Posted by ☆新米社長☆ at 08:52 Comments( 2 ) 琉球の歴史


(旅その2)
この写真に写る島は、沖縄の島々の中で、最北端にある伊平屋島です。
細長い形をして、小さい島のわりには、200mを越える緑の山々が点在し
平野部には広々とした田畑、サンゴ礁が連なる海岸線、えんえんと続く白
い砂浜そして、澄んだエメラルドグリーンの綺麗な海がひろがり、伊平屋は
沖縄本島の縮図かの様に細長く山の幸・海の幸に恵まれています。

と言うことで、実話まだ私、伊平屋島にいったことがありません。
いずれは、必ず行くつもりですが、今回は画像などを利用して、
尚巴志(ショウハシ)のルーツを辿りたいと思います。


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琉球の覇者!

2007年06月26日

Posted by ☆新米社長☆ at 16:53 Comments( 0 ) 琉球の歴史

http://www.gusuku.sakura.ne.jp/characters/chara_top.html#

尚巴志のプロフィール
尚 巴志王(しょう はしおう、1372年 - 1439年6月1日、在位1421年 - 1439年)は、
尚思紹王の子供で、琉球王国・第一尚氏王統第2代目の国王。
初代琉球国王。
神号は勢治高真物(せじたかまもの)。

父思紹、母美里子の娘の長男として生まれる。
祖父は、「鮫川大主(さめかわうふぬし)」ともいわれ 伊平屋島から馬天港へ
渡ってきた。

21歳のとき、父の後を継いで南山の佐敷按司となる。
1406年、中山王武寧を攻撃して察度王朝を滅亡させ、首里(現在の那覇市)を首都
とし、また父・尚思紹を中山王に即位させた。

1416年に北山国を討伐し、次男尚忠を北山監守として北部の抑えにした。
尚思紹の死去により1421年、中山王に即位。
1429年には南山王他魯毎を滅ぼして三山を統一、第一尚氏王統による琉球王国最初
の統一王朝を成立させた。

在位中は首里城を拡張整備し、王城にふさわしい城とした。
あわせて安国山に花木を植え、中山門を創建し外苑を整備した。
また那覇港の整備を進め、中国をはじめ朝鮮、日本、南方諸国等、海外諸国との交易を
盛んに行い、琉球の繁栄の基礎をもたらした。



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沖縄そばの歴史!

2007年04月16日

Posted by ☆新米社長☆ at 08:44 Comments( 3 ) 琉球の歴史


「沖縄そばの歴史!!」
14世紀末に中国の明から伝わったという説や、15世紀から19世紀にかけて中国から,琉球王朝に訪れていた冊封使によって伝わったとの説もあり、いずれにしてもその起源が中国にあることは間違いないようです。

そば麺の原料は小麦粉を使用し、琉球王国時代には高価な食材であった為、しばらくは、
宮廷料理としてのみ食されていたと云われています。

庶民に拡がるのは大正時代に入ってからで、その頃お店によってスープの創意工夫が、
なされ、豚・鰹・塩・醤油などのさまざまなベースの元、県内各地に多くのそば屋が点在
し独自の味を極めて、現在数多くの「そば」が、県民にしたしまれています。

「沖縄そばの危機!!」
沖縄本土復帰から4年後の昭和51年、公正取引委員会から「沖縄そば」という名称使用に関してクレームが入りました。
「……そばの名称は、蕎麦粉が30%以上混入されていること……」とする全国生麺類公正取引規約に反するというのがその根拠であります。

沖縄そばに蕎麦粉はまったく入っていないので「そば」名称には、該当しないとの通達を受けるのですが、沖縄県民に長年親しまれてきた「沖縄そば」の名称も守らなければならないと、当時の沖縄県生麺協同組合理事長が、県内の公正取引室と再三交渉を重ねますが折り合いが付かず、そこで理事長は東京へ飛び、全国生麺協同組合連合会会長を説得しともに東京本庁へ直談判し、粘り強い交渉を重ねた結果昭和53年にやっと「本場沖縄そば」
名称使用が認可されました。

現在は認可された10月17日を「沖縄そばの日」と制定して、先人たちの苦労に感謝して県民みんなで「沖縄そばを食べよう!」と呼びかけていますよ~!!青しまぞおり


泡盛の歴史!

2007年04月03日

Posted by ☆新米社長☆ at 07:01 Comments( 2 ) 琉球の歴史


「泡盛の起源」
泡盛の起源はウイスキーやブランデーと同じで,紀元前300年頃のギリシアまで
さかのぼるそうです!びっくり!

古代ギリシアで生まれたアンビクスという蒸留機は,エジプトでアラブ人によって
アランビックと名を変え,東洋と西洋に伝えらたそうです。
10世紀頃,すでにシャム(現在のタイ国)の蒸留酒が中国へ運ばれているほど,
東アジアの蒸留酒の普及は西洋より遥かに早かったと云われているらしい!
13世紀に入ったばかりのスペインで,ワインの蒸留液は《生命の水》というお薬と
して認められ,1420年のパリでは薬局で売られていたそうです。

そのときすでに,琉球王国ではシャムとの交易を始め,シャム南蛮に詰められた
蒸留酒を輸入しており,1470年頃にはいまの泡盛の原型の国産化が始まったと
いわれています。

一方,西洋で蒸留酒が酒として飲まれ始めたのは,ウイスキーで1570年代から、
ブランデーで1660年頃のことですから,泡盛はこれらの蒸留酒の中では大先輩
にあたるお酒なのです。

「泡盛と琉球王朝」
琉球王家は泡盛を薩摩や江戸への重要な貿易品として育成してきました。
王朝時代,泡盛造りは首里城裏手の崎山・赤田・鳥堀の首里三箇(さんか)
限られ,古来より泡盛を造り続けてきた30人の本職とこれに10人の重職(かさみ)を
加えると合計40人の焼酎職が専門に泡盛を造っていたそうです。
また東恩納寛惇によれば,王家が指定した三箇の泡盛業者は48軒あり,焼酎48職
といっていました。
もし泡盛造りに失敗したりすると,軽いものは蒸留機の没収,重いものは家財没収の
うえ島流しにされたそうで,泡盛造りも命がけだったそうですよ~!青しまぞおり


琉球戦国時代の武将!

2007年01月19日

Posted by ☆新米社長☆ at 06:18 Comments( 0 ) 琉球の歴史
フアィル№最終回
~忠臣護佐丸(ゴサマル)~


護佐丸の最後

護佐丸討伐の軍を率いる阿摩和利は、中秋の名月・八月十五夜に中城グスク
攻めを決行します。

中秋の名月ともあって城では、観月の宴が行われ目前に兵が迫っているのを
気付いてなかったのです。
城内では、阿摩和利の不意をついた中城攻めに護佐丸は、「自分は、謀反の
心などないぞ!」
と申し出ようとしますが、討伐軍の勢いは凄まじくその余裕も
ありません。

護佐丸は、阿摩和利の軍が攻め入ったのは王命によるものだと知っり交戦し
反撃の準備に取り掛かった家臣たちに、「王旗に手向かうことは、できぬ!」
一切抵抗せぬように、命令を下したと云われていますがそれは、歴史の謎と
されています。

琉球の歴史では、「忠臣護佐丸」として、現代に伝えられていますが、事実は
ともあれ琉球戦国時代を尚巴志と共に天下統一の夢を見て、夢を果たし戦の
ない平和な琉球を夢見たであろう護佐丸は、1458年秋に夫人と二子と共に
自害したと云われています。
三山統一の立役者は、時代の波に呑み込まれ無念の最後を遂げました。

その後琉球は、護佐丸が夢見たであろう王国を築き、世界をまたに架けて
琉球王国として、繁栄して行くのです。



                       完!



琉球戦国時代の武将!

2006年12月06日

Posted by ☆新米社長☆ at 10:07 Comments( 0 ) 琉球の歴史
フアィル№10
~忠臣護佐丸(ゴサマル)~


護佐丸・阿摩和利の乱
勝連按司の阿摩和利は、尚泰久王の娘、百十踏揚(モモトフミアガリ)を妻としました。
百十踏揚は、絶世の美女と云われていますが、琉球戦国時代の悲劇の皇女と
しての人生を歩むこととなります。
好景気で栄えている勝連地域は、皇女を迎えることで大変賑わいますが阿摩和利
は、密かに天下を取ることを夢見ていました。

しかし、首里と勝連の間には、読谷山座喜味グスクから居城を中城に移した中城按司
護佐丸が首里を守るために経ちはばかり、うかつに勝連から兵を首里へ進めると命取
りになるので、進攻できませんでした。

阿摩和利は、天下を取る夢を叶えるためには、護佐丸の存在が最も脅威で邪魔な
ために、いかにしたら強敵護佐丸を倒すことができるのかを模索していました。

そこで、阿摩和利は、知恵を絞り密かに首里へ登り、尚泰久王に護佐丸が謀反を
企んでいるなどとでっち上げ、言葉巧みに王にけしかけました。
尚泰久王は、阿摩和利の密告が事実かを見極めるため、密かに中城へ使いを送り
調べさせたところ軍事訓練を繰り返し、何時でも首里を攻める準備をしていると報告
を受けます。 はたして、それが事実かはいまだ謎とされています。

その報告をへて尚泰久王は、阿摩和利の言葉を信じて彼を琉球王府軍の総大将を
命じ、護佐丸討伐へ中城城に兵を進めるのです。




琉球戦国時代の武将!

2006年11月18日

Posted by ☆新米社長☆ at 08:40 Comments( 4 ) 琉球の歴史
フアィル№9
~忠臣護佐丸(ゴサマル)~

相次ぐ王の交代と王位を争っての戦、勃発により首里城
も焼け落ちる非常事態のなか、王権は、一突きすれば、
崩壊する危ういものとなっていました。

こんな時、天下を狙う勝連阿摩和利が動いたらどうるか?
王権を守るためには、尚巴志と共に天下統一の夢を成した
護佐丸に全てが委ねられる状況となった。

その後王位についたのは、越来王子の尚泰久(ショウタイキュウ)
が、国王として首里へ登ることによって勝連封じの包囲網は
脆く、崩れてしまう。

勝連の軍事力はどの程度のものか?
倭寇とのつながりをもっているだけに、計り知れないものがあり
護佐丸にとっても強敵となると考えた尚泰久王は、王女百十踏揚
を勝連の阿摩和利に降嫁し婚姻の絆を結ぶことによって首里と
勝連と和解、王権の安泰をはかります。


琉球戦国時代の武将

2006年08月21日

Posted by ☆新米社長☆ at 11:13 Comments( 0 ) 琉球の歴史
フアィル№8
~忠臣護佐丸(ゴサマル)~
情勢不安

首里王府は、当時倭寇(ワコウ)との繋がりの深い勝連の茂知附按司(モチヅキアジ)が
勢力を拡大し繁栄しているのに警戒を強め中城の護佐丸(ゴサマル)、越来グスクの
尚泰久(ショウタイキュウ)、江洲グスクの尚布里(ショウフリ)の三方から睨みをきかせ防衛
にあたっていました。
ところが、彗星のごとく現れた阿摩和利(アマワリ)が、茂知附按司(モチヅキアジ)を滅ぼし
按司の座を奪いました。
その頃首里王府は、尚巴志(ショウハシ)が亡くなり、これお継いだ尚忠王(ショウチュウ)が、
在位わずか5年でその後の尚志達王もまた在位5年でさらに、尚金福王は在位4年
で亡くなる非常事態となり、相次ぐ王の交代で落ち着かなくなったうえ、王位を争って
志魯(シロ)布里(フリ)の乱が勃発し、首里城ともども焼け落ちるという王府緊急事態に
陥り王権崩壊の危機が迫っていました。






琉球戦国時代の武将

2006年06月30日

Posted by ☆新米社長☆ at 09:02 Comments( 0 ) 琉球の歴史
ファイル№7
~忠臣護佐丸(ゴサマル)~

護佐丸(ゴサマル)中城へ移る

1440年、尚巴志王が亡くなり息子の尚忠が即位すると、護佐丸は、さっそく読谷山の
兵を率いて中城へと移ります。
中城へ移った護佐丸は、すぐに勝連城に向かう北東部に城壁を築いて、城郭を広げます。
正門からグスク内に入ると、最初に細長い曲輪が、広がっていて、その左手に、下がって
いくと井戸があり井戸の反対側、右手の石門をくぐると樹木が生い茂る拝所に行き当たり、
この聖域を含む一帯が南の郭とされ城壁には、城が戦場となった場合に備えて、狭間が
造られて、南の郭を奥へ進むと順次、一の郭、二の郭、そして三の郭、北の郭へと至る。
三の郭を囲う城壁は、中城城城内全体の石の積み方と異なっていて、護佐丸(ゴサマル)が
築いたと言われ、15世紀ごろ勝連城主の阿麻和利(アマワリ)を見張るため、座喜味グスク
から居城を移し整備したと、伝えられています。
中城グスクは沖縄の中央に陣取っていて、北山討伐でその名を上げかつ尚巴志王とは、
姻戚関係を結び娘は尚泰久の妃となり、王舅(オウキュウ)とし琉球第一の武将として、絶大
な権力を振るいます。


琉球戦国時代の武将

2006年05月26日

Posted by ☆新米社長☆ at 04:37 Comments( 0 ) 琉球の歴史
ファイル№6
~忠臣護佐丸(ゴサマル)~ 
[英雄、尚巴志(ショウハシ)の死]
琉球統一を果たした尚巴志も年老いて病となり、自分亡き後の王権の行く末に不安を抱えていたのでしょう。
その頃、勝連では交易により莫大な富を築き、繁栄していたと考えられています。
勝連城跡からは、おびただしい中国陶器の破片や瓦などが発掘調査で発見され、首里城正殿と同等の建物が建っていたと推測されています。
首里王権を脅かす勝連を封じ込めるため尚巴志は、遺言として、読谷山按司護佐丸へ中城行きを命じ、越来グスク、江洲グスク、中城と三方から勝連を包囲し首里を守ることを託したのでわないだろうか。

1439年、護佐丸と共に琉球統一の夢を叶えた尚巴志も享年68歳の生涯を閉じます。
護佐丸は、英雄、尚巴志の面影を抱き続け、その後の人生最後まで彼に敬意をはらい忠誠を尽くし過ごしたのでわないだろうかと、個人的に考えています。


琉球戦国時代の武将

2006年05月06日

Posted by ☆新米社長☆ at 07:57 Comments( 0 ) 琉球の歴史
ファイル№5
~忠臣護佐丸(ゴサマル)~
座喜味グスクは、二連郭で、城壁は、外郭、内郭ともに屏風を廻らした様な見事な曲線構造を取っておりグスクとしては、小振りながらも、石造建築技術の枠を凝らしたまとまりのある曲線美の城郭を造り出した。
沖縄のグスクは、ほとんど琉球石灰岩の岩山と岩盤を利用しているが、この座喜味グスクだけは、国頭マージと呼ぶ赤土の台地に築かれ、城壁は崩れないように曲線構造を取っている。
門は外周りに一つ、内郭に一つとたった2箇所しかなく、防衛しやすい造りとなっていて、このように、護佐丸(ゴサマル)は優れた築城家だと云われ、その采配は、戦国武将の防衛センスが優れていることを示しています。


琉球戦国時代の武将

2006年04月19日

Posted by ☆新米社長☆ at 05:25 Comments( 0 ) 琉球の歴史
ファイルNo4

~忠臣護佐丸(ゴサマル)~
座喜味グスク築城(その2)
奄美諸島・慶良間諸島の各島から
集められた「人夫」たちに、石を切り
出させまた、前居城の山田グスクの
城壁を崩して、手渡しで運ばせた。
山田グスクから座喜味グスクまで
直線距離は4㌔あり、山中の旧道
沿いには、慶良間宿・永良部宿・
与論宿などと呼ばれる人夫小屋も
置かれたらしく、山道の石運びは、
過酷で石を抱いて谷底に墜死した
者もあったという。
城壁の積み上げも同様に、各島ご
とに、分担を決めて石に目印を刻み
競い合わせたとも伝えられている。


琉球戦国時代の武将

2006年04月16日

Posted by ☆新米社長☆ at 06:40 Comments( 0 ) 琉球の歴史
ファイルNo3                                                      
~忠臣護佐丸(ゴサマル)~
<座喜味城築城>その2                                                座喜味グスクを築城する時、護佐丸は、                                     読谷山の領民はもとより、遠く喜界島・                                       奄美大島・沖永良部島・与論島などの                                       奄美諸島、さらに慶良間諸島の人民を                                      築城のため徴収した。単に「人夫」として                                      手間賃で雇ったかもしれないが、与論島                                     では子供が泣くと泣き止ますため                                          「護佐丸がくるぞ~」と脅す伝えもあって、                                     強制的に築城に駆り出されたこともうかがえる。


琉球戦国時代の武将

2006年04月14日

Posted by ☆新米社長☆ at 09:15 Comments( 0 ) 琉球の歴史
ファイルNo2
~忠臣、護佐丸(ゴサマル)~
<座喜味グスクの築城>その1
座喜味グスクのふもとには、長浜という良港があり                                三山時代には、察度王(サットオウ)の弟、泰期(タイキ)                              が長浜港を望む読谷村宇座の地にあって、南蛮貿                               易が盛んにおこなわれていた。
読谷には、南方貿易の影響を受け織物「読谷山花織」             や喜納に陶器が作られ棒踊り「南の島(フェーヌシマ)」の             芸能が伝えられているが、これも琉球時代、読谷村              長浜を拠点とした南方の交流がもたらしたのでわない             かと、考えられている。護佐丸は、長浜港を控え読谷山            一帯また遠く首里を見渡せる座喜味は、かっこうの土地            であった。